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エッセイ スーベニアに寄せて

2022年の立春から2023年の大寒まで、まるっと1年。僕は2023年春開催の個展「エチカ」のために、初の試みとなる二十四節気シリーズの制作を行なっていた。二十四節気とは、1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それをさらに6つに仕分けたもの。気候などの視点でそれぞれに名前がつけられている。制作のルールは、実際にその季節に描き始めることだ。季節が移ろえば、庭の草花の表情は変わる。温度が変われば、和紙の乾くスピードが異なる。1年という時間を、制作を通じてまさに実感した365日間だった。

そしていま振り返る。それからさらに1年が経ったのか、と。あの1年から螺旋のように続く、新しい1年。同じようで、しかし同じ時間は二度とやってくることはない。そんなことを考えながら、僕はいくつかのシーンを思い出した。

例えば、松本で見た雨上がりの初夏の朝靄。「エチカ」が終わってからすぐ、図録の印刷に立ち合わせていただいたのだが、僕は印刷会社のある松本までレンタルバイク(XSR900)で走った。夜に雨が降ってきたので急遽泊まり、雨上がりの早朝、愛知に向け出発した。車もまだ少ない初夏の朝、しんとした美しい空気が流れていた。

例えば、これから育っていく藍の、艶々とした緑色。夏を目の前にしたある日、ふと藍を育ててみようと思いついた。実は僕はデニムが好きで、作業着としても毎日履いているのだが、その染料でもある藍は日本画材としてもメジャーである。だから自分で育てた藍を作品に使えたらいいなと考えたのだ。藍という植物自体の色も、そこから生まれ出る色も、一つとして同じものはないことを知った。

例えば、ヴァンスで見た山々。秋に久しぶりの海外へ行き、マティスのステンドグラスを観るためにロザリオ礼拝堂を訪れたのだが、礼拝堂までの長い坂道の途中、霧がかった山々に、巨匠たちの描く風景画を想起した。彼らの作品もまた、当時から現在まで時間を超えて届くスーベニアだと思った。

例えば、福島の360°の空。年が明け1月、福島、相馬地区を訪れた。津波の大きな被害に遭った相馬地区は東日本大震災とは切り離せない地域だが、しかしだからこそ、いま生きている自分を改めて感じた。震災当時の自分の制作、あの画面の中を絵具で模索するような日々を思い出した。ずっと続いていくような青空と、夕焼けのグラデーション、そして濃紺の星空に、これから描くかもしれない色を見たような気がした。

どれも僕が実際に経験したシーンであり、特別な思い出だが、しかし同時にこの感動は何でもない日常にも落ちていることに気が付く。アトリエで出会う見たことのない色やカタチも、同じ時間が二度とやってくることはないことを思い出させるようなシーンの一つだ。僕が過去から現在にきちんと持ってきたシーンたち。それはこれからまた1年、未来の自分へ届けることができるスーベニアであり、誰かに渡したいスーベニアでもある。

この春、人生で最も大きな別れを経験した。ないことが、ずっとあるということを、実感する日々。しかしもう会えない人もまた、数々のシーンと同じように僕の中に残っていて、あるいは僕は制作を通じてその色やカタチに、訪れる場所の風景や、植物の色に、その人を見出し、再び会えるのかもしれない。

また新しい1年、制作の方は原点回帰して「デッサンのすゝめ」をテーマにかかげ、勉強に取り組み始めている。誰かに、あの人に、見せたいと思える絵を描いていきたい。