今更ながら、サブスクリプション方式の音楽サービスに加入した。今日は、音楽の話・・・
自分はふだん音楽を流しながら制作するのだけど、この音楽選びはとても重要で、妥協できないので、絵を描くときにマッチする音楽を日々探していたりする。優れた音楽は見たことのない景色に連れていってくれ、絵を描く手助けさえしてくれる。
もちろん、制作時以外にも音楽を楽しむ。「趣味:音楽」と言っていいくらいには、僕は音楽が好きだ。
中学生の頃だったろうか、いまでも思い出す感覚がある。限られたお小遣いの中でどのCDを買うか、悩みに悩んでやっと選んで、早足で帰り、デッキの前で再生ボタンを押すときの、あのワクワク。それからそれを擦り切れるくらいに、何度も何度も聞き返したものだ。
あれから長い時間が過ぎたけど、新しい曲を聴くとき、僕はあの頃と変わらないワクワクに出会える。制作時のために普段は聴かずに取っておいたアルバムなんかは、なおさらだ。
ここで冒頭の話に戻る。
そんな僕の生活に、ついに、サブスクがやってきた!
そうして、すこし気になるけど購入には至らなかったアルバムなんかも全部、サブスクで聴けるようになってしまった。これは自分にとって、ちょっと事件だ。なぜもっと早く加入しなかったのかというくらい毎日楽しくて、時間がいくらあっても足りないので、お風呂の中でも毎日違うアルバムを聴いている。
・・・だけど同時に、ちょっとさびしい気持ちが生まれる。
もしかしたら、音楽を「所有する」という時代は終わってしまうのだな、と。お気に入りのバンドの新しいアルバムを聴きながら 歌詞カードをめくるようなことは、0ではないにしても減ってしまうのだな、と。
歌詞カードやジャケット写真のアートワークは、間違いなく、自分が芸術と接することの原点のひとつだった。
中学生よりもう少し大きくなってから、僕はレコードジャケットのアートワークに夢中になったけど、実のところ あのサイズ感がしっくりくるので、自分の作品のサイズに取り込んで、連作をつくったりもしたくらいだ。(シリーズ「beyond」とか)
しかし、いろいろと思った末に 僕は思い出す。
音楽や芸術なんて、そもそも所有できないものじゃないか。
捕まえようとしたら、フワフワとつかめない。
その時に自分がどんな気持ちになるのかが、作品なのかもしれない。
目に見えない、手で触れられないものの、本質と、たいせつさ。
それは、流れ、漂い、常に在るべきところに在る。自分がうつくしく存在できるところを知っている。
芥川龍之介は、文章のなかの言葉は 辞書に載っているより美しくなければ、といった。
メロディに乗ってやってくる言葉は、文字で見たときの想像を超えて、すっと心に入ってくる。
ふと自分に問う。
僕の絵の中であの色たちは、棚に陳列された瓶入りの絵具より、美しくみえているだろうか?